寿司は無限

アニメとかについて書きます。寿司は無限などと言っている割にせいぜい30皿が限度です

デート・ア・ライブⅡ 鏡写しのライブシーン

 デート・ア・ライブⅡでは八舞姉妹と美九が描かれている。そのいずれもメインヒロイン(おそらく)の十香の活躍や士道との関係性の深化、世界との関わりなど、素晴らしい仕掛けが数多用意されていて、非常に楽しめた。特に美九編(原作)ではあの美しいライブシーンに圧倒された。そもそも美九は十香が反転するという展開にを描くにあたって、十香から逆算されて生まれたキャラクターなのではないかと考えている。鏡のように同じものを写し、かつ反転している。

 

1 十香 彩られる世界

 十香は精霊として生まれたばかりに世界から排除されてきた。目にするものは、廃墟と自分を殺そうとするASTのみ。世界は、ひどく冷たい、敵意に満ちたものだった。その冷たい世界から彼女を救い出したのが士道だった。士道(とフラクシナス)は最初、十香に喜びもを教える。それはきなこパンであり、ひしめく屋台であり、士道とのふれあいだった。美味いものを食べて、遊び歩き、心を許せる人を語らう。生の喜び、存在を肯定されてること、と言い換えてもいい。異物として排除されるべき特殊災害指定生命体だとしても、十香を、苦しみの底にある精霊たちを「肯定」するという強い意志が、十香の心を動かしていく。

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デート・ア・ライブ1期3話の食事シーン。いずれの十香も素晴らしく可愛いことが分かる。人間の根源的な快楽(美味い飯)を全身で謳歌する十香に泣ける。彼女はこんな当たり前の喜びすら阻害されてきたのだ)

  冷たい世界は温かさを宿し、彩りに満ちた真の姿を十香の前に差し出したのだ。突如して世界に放り出されて、生きること阻害され続けてきた十香がやっと、喜びや苦しみに彩られた世界を歩んでいく。この祝福に満ちたデート・ア・ライブ1期序盤を見ると、しみじみと泣けてくる。

 そして、士道はたくさんの精霊の王子様になっていく。四糸乃や妹の琴里、八舞姉妹……。そんな中で、最初の精霊である十香は置き去りにされていくかのように思える。しかし、士道が迷った時、彼を救うのも十香なのだ。八舞姉妹の悲しい闘争を前にした士道は、どうしたらいいのか、道に迷っていた。士道の悩みを悟った十香が、夜の海辺で励まし・助言する。

 このシーンの美しさは、士道に冷たい世界から救いあげられた十香が、今度は彼の苦しみを和らげ、支える存在になっていることからくる。士道と出会い、琴里やあいまいみーなどの友達と呼べる存在を得て、心が潤ったから、人を救うことができる。

 八舞姉妹を破滅的な二者択一から開放する過程で、十香の果たす役割は非常に大きい。最初は士道に救われて世界との関わりを持った十香だが、「生きていく」中で、自然と士道と支えあっていくのが感動的だ。

 

2 美九 自己否定と依存

 廃墟と敵意の中で、喜びから疎外されてきた十香に対して、美九は地位やアイドルとしての名声、「お人形」からの崇拝……十香とはまったく対照的に、精霊であることによって(破軍歌姫<ガブリエル>)の洗脳能力)、何もかも持っている(かのように見える)。美九は自分以外の人間たちに対して、憎悪を向けるか、モノ扱いしかない。この世界のすべてが、美九を肯定するのだから、好き放題他人を踏みつけにして生きていけるのだ。他人の生命を何とも思わない美九に対して、士道はこう言うのだった。

 

「世界の誰もがそんなお前を肯定しかしないなら……俺がその何倍も――お前を、お前の行為を否定する……ッ!(デート・ア・ライブ6巻、146p)」

 

 激高していても、「お前の行為」と美九自身から微妙に矛先を逸らしているところに士道らしさが出ている。これはかつて十香に言ったことと正反対だ。美九にとっては、「精霊である」ことの持つ意味も、十香(と他の精霊たち)とは真逆だ。美九はその能力ゆえにアイドルとしても、学園の女王としても、絶対的な支配者として振る舞えている。美九は「精霊である」がゆえに何らかの苦しみを抱えていた今までヒロインとはまったく異なる存在として物語中に現れる。この新しい難敵とこのあとに訪れる原点回帰も素晴らしい。

 また現世的な幸福を一切満たしているかに見える美九が、どこか虚しさを抱えているのもよい。美九はアイドル時代、枕営業を強要され、裏切られボロ雑巾のように捨てられたことで、酷い人間不信に陥っていた。ファントムが彼女に洗脳能力を授けたのは、その恐怖を薄めてやるためだろう。すべての人間を洗脳して人形のようにできるなら、恐怖や不安はない。しかし、心のどこかでは、生の人間と接して肯定されたいという切実な気持ちも内包しているのも、美九というヒロインの趣深いポイントだ。

  世界すべてから肯定される美九。しかし、この世でただ一人、士道よりも遥かに深く彼女を否定している人間がいる。それは美九本人だ。ただの人間だった時、自分を使い捨ての商材か、性欲のはけ口としてしか見なさない芸能界、嘘のスキャンダルで美九を貶めるファン……ひいては男性一般に絶望した美九は、心因性失声症になってしまう。

 

 歌しか持っていなかった女の子が声を失ったら、もうその子に存在価値などはない。そんなこと、ずっと前から知っていた。九歳になる頃には、もう理解していた。だから、そんな美九が自殺を考え始めたのは、至極当然のことだった。(中略)価値のない子は簡単に処分できるはずだった(デート・ア・ライブ7巻206・207p)

 

 美九が抱えているもっとも根源的な苦しみは、自分が(声を失ったら)「価値のない子」だという自己否定だったのではないか。美九は基本的に不遜で、学園の女王然としているから、見落としがちだが、これそこ美九というヒロインの本質ではないかと思う。これは嘘のスキャンダルによる失墜に起因するものではなくて、美九という個人に初めから内包されていたものだ。スポーツも勉強も並以下だった美九にとっては、歌だけがこの世界に繋ぎ止める寄辺だった。

 7巻後半で再び声を失った美九を、士道が命がけで救うことによって、その心はほぐれていく。

「もし私が今の『声』をなくして、他のみんなからそっぽを向かれても、士道さんだけはファンでいてくれるって。――あれは、本当ですよね(7巻326p)」

 士道が真心によって救われたと見るべきだろう。しかし、美九の心の底にある根本的な自己否定感が解消されたかというと、そうとは言えない。自己否定感と裏返しの依存ともとれる。デート・ア・ライブのゲーム第二弾或守インストールで提示されたシチュエーションの一つに、「もしも美九がヤンデレ彼女だったら。」というものがある。

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(PS3持ってないのでこのゲームできないのが残念。なんでも電脳世界で繰り返しこのようなif的なシチュエーションが提示されるのだと聞く)

 美九のヒロインとしての本質が、自己否定と裏返しの依存だとしたら、実はこうしたキャラクター設定は、デート・ア・ライブのヒロインたちの中でも合致している方ではないだろうか。

 美九編のオチは依存的であるなど、言いたいことが全くないわけではない。しかし、何からの客観的な価値を失ったとしても、ただの心しか持たなくなっても、相手を肯定し続けること――それは愛とも言えるのかもしれない。

 

 3 原始的な喜び――表現すること

  十香は精霊であるがゆえに、世界から拒絶され、排除されてきた。他者から存在を否定されて、生の喜びから疎外されてきた。士道が十香の存在を肯定して、やっと彼女の世界は色を持ち、歩みを始めた。

 美九は精霊であるがゆえに、世界から(破軍歌姫<ガブリエル>の能力によって)肯定され続けている。誰からも肯定される美九を否定しているのは、実は士道ではなくて、美九本人であった。

 実は鏡写しのように対照的に造形された二人。そして、二人は同じく自分の存在を士道に肯定されることによって、デート・ア・ライブの世界でヒロインになっていく。十香の世界から疎外された苦しさも、生の人間との絆を求める美九の気持ちも、士道とのふれあいで和らぎほぐれていくのだ。

 アニメ版では少しわかりにくいのが、十香と美九の対比が頂点に達するのが、文化祭でのライブシーンなのである。

 人間世界の文化から隔離されていた十香とって、ライブなるものもはじめての体験であった。DEMの攻撃により回線が破壊されて、歌が途絶し、口パクで乗り切りはずであった士道たちは混乱。窮地に陥る。それを救うのも十香であった。十香は練習の過程で歌をすべてとは言えないまでも覚えていたのだ。タンバリンを打ち鳴らして、声や体、全身で喜びを表現する十香の姿はとても感動的だった。

 

 十香の顔からは、大舞台の気負いも、美九への敵愾心も、大仕事を背負わされた義務感も、何も感じられなかったのである。ただ、楽しそうに。士道たちと一緒に演奏できることが、嬉しくて楽しくてたまらないといった様子で、『音』を『楽』しんでいたのだ。(6巻260p)

 

 十香の純粋でプリミティブな歌うことの喜びは、士道にも、八舞姉妹にも、四糸乃にも、観客たちにも伝播していく。まず士道が十香に合わせたアドリブ演奏をして、八舞姉妹がそれに応える。「この舞台の上で、十香と一緒に歌いたい!」という思いが士道を動かしてく。

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 (思わずリズムを刻む四糸乃とよしのん。身体の底から沸き上がる表現が人に伝わっていく感動がある)

  かつて「食べる」という喜びを初めて知った十香。今度は「表現する」という喜びを生き生きと享受する姿はしみじみと泣けてくる。十香の歌は歌詞もところどころ間違っていたり、アドリブがあったりと、完璧なものとはいえない。しかし、歌や詩、絵画、この世界になぜ表現が存在するのかを身をもって示したのである。

 一方、美九のステージは、一言で言うなら、「完璧」だ。美九本来のアイドルとしての技量、計算された演出、さらには(琴里が仕掛けた)アクシデントすら霊装を駆使してさらなる熱狂を作り出す。アイドルだから当然であるが、そこにはどうしても打算が入る。美九は士道の身を巡った争いの勝利のために力をふるうのだ。

 十香の歌はもっとプリミティブで、全身で生の喜びを表現して、観客たちにそれを届けている。それはトラウマを抱えた美九が失ってしまったものなのだ。あのライブシーンが象徴的に二人の性質を対比している。

 さて、その抱える苦しみや肯定と否定が転倒したような十香と美九だが、最終的には士道とのふれあいや、存在を肯定されることによって救われていく。これこそがデート・ア・ライブという物語の原点といえるだろう。美九は最終的に歌うことの喜び――表現することの喜びを取り戻して、かつての自分のように、文化祭での十香のように、自分の生の声を世界に轟かせるのである。

 デート・ア・ライブの最初の物語の肝は「肯定する」ことだった。そして、美九は十香とは真逆の性質を持って、物語に登場するが、そのことが逆にこの美しい原点回帰を生み出したのである。

 原点回帰といえば、クライマックスで反転した十香に士道がキスをする。それが絶望に塗り込められた彼女の心を呼び覚ます。その時、十香の心によぎるのは士道との思い出だった。小さな愛の記憶が、精霊の反転という現象を乗り越える。デート・ア・ライブの愛の物語をこれからも見続けていたいと思わされる。

 

 劇場版万由里ジャッジメントが今年の夏に公開されるそうだ。みんな見に行こう!