蛸壷屋 はかなき夢を 夏の月
近頃、性的二次創作禁止運動がかまびすしい。けものフレンズの性的二次創作を粉砕せよと息巻く彼/彼女は蛸壷屋先生のガルパン本『ゆきゆきて戦車道』を読んで過激な規制論者と化したらしい。
正確に言えば、好ましからざる同人として例示したに過ぎず、彼/彼女が蛸壷屋先生の本を読んで、規制に目覚めた……とは読み取れない。そもそも「版権キャラを全裸にして首釣らせる」同人が蛸壷屋先生の作品かすらわからない。モノはなるべく正確に書くべきだと思います。
しかし、これを読むと案外蛸壷屋嫌いというか、拒絶反応を示す人たちが多いみたい(そりゃあそうか)。もちろん大勢は「蛸壷屋がどんなものを描こうと規制される理由にはならない」という意見だけど、こういう人たちもいます。
曰く「これは表現への差別ですけれども蛸壷屋は規制されても仕方ないと思う。蛸壷屋は仕方ない」
曰く「蛸壺屋の同人の名を借りたゴミを消し去るために俺も署名しなきゃ」
曰く「蛸壷屋はなぁ・・・おまそれオリジナルでやれよ。その題材でやる意味あるのかよってぐらい元作品冒涜してて最高にアレ」
曰く「他人様のキャラを殺したり精神的に追い詰める内容のコンテンツ商売にしてるのは、同人界隈でも異端というかアカン部類の人」
曰く「無断で人の褌で相撲を取った挙句、その褌を糞まみれにするような、他人に不快な思いをさせるのを生きがいにしてるクソ野郎、二次創作界隈に限っても別に蛸だけじゃないんだし、ピンポイントでアレだけ規制してもしゃああんめえよ」
なんとなくみんな下品で下世話でエグいこと起こしてアニメキャラが死んだり苦しんだりしたらリアルだ現実だと持て囃してるイメージでいたけど、どうも私の偏見だったらしい。虚淵先生とか人気だし、こういうのみんな好きなんだと思っていました。よくないですね。
ここで私自身の蛸壷屋観の変遷を述べておきます。一番最初は恥ずかしながら、かなり好きで影響受けて持ち上げたりしていました。私のpixiv垢でその頃の小説が読めるのでヒマな方はぜひに。そしてちょっとすると、あの芸風のしょうもなさ、下品で下世話で適当に映画パクったエグいこと起こせばリアル~みたいなのが、肌に合わなくなって冷ややかになり、今はフツーの同人作家だよって思います。
二次創作なんて大なり小なりあんなものだと思います。冒涜的でない二次創作なんてありえるのか疑問。“その題材でやり意味のある二次創作”とやらも同じ。意味なんかないし、必要とも思えません。
欲望を“他人様のキャラ”とやらに投影して勝手に気持ちよくなっているんだから、大体似たようなもの。「私の願望は作品への愛だが、○○は冒涜」なんて人の欲望に序列をつけるのはよくないでしょう。同様に、エグけりゃリアルと持ち上げるのも馬鹿っぽい。いちゃラブも陵辱も対等でそこに勝手な貴賎を設けちゃいけないと思います。
ちなみに蛸壷屋先生は今はずっと艦これ本にかかりきりです。最初の艦これ本を友達に読ませたもらったら、くっそしょうもないミリ知識自慢みたいなのが鼻についてまったく買う気が起こりませんでした。ただ、本当に単なるゴロだったら、今時艦これ本なんか描いていないとも感じます。だから、案外、本当に艦これが好きでやっているじゃないかと思うわけです。
とまあ蛸壷屋批判なんて、上記のまとめの通り、どうも何千回何万回言われているみたいなので、私がぐちゃぐちゃ言っても仕方ないでしょう。これからは下品で下世話でエグいこと起こしてアニメキャラが死んだり苦しんだりすればリアルというくっそしょうもない芸風の中にある好きなところについて書きたいと思います。
好きなところ その1 裸踊りバカエロギャグ
ついさっき甘ブリは裸踊り押しでつまんなかったと書きましたが、基本的に裸踊りは好きです。ここまで裸踊り的なシチュエーションが頻出するということは、これもやっぱり本当に好きなんでしょう。ある作品の後書きでは、裸踊りだけ30ページは書きたい!てなことを言っていて、どんだけ好きなんだよ!と言いたくなります。
蛸壷屋先生のエロは全体的にバカっぽくていいのです。まどか二作目でさやかたちが全裸ラジオ体操するところとか、思わず吹き出してしまいます。コメディなんですよね。適当にエグいこと起こす芸風の安っぽさとも相まって、奇妙なおかしみを醸しだしています。他にエロだと氷菓で摩耶花とセックスしたまま考え事をしだす折木奉太郎なんか、くだらなくて笑えます。評価の高いけいおん三部作でも、竿役が何故か利根川なところも、なんでそこでカイジなんだ?と不可解ですし、ムギちゃんの露出癖も完全に蛸壷屋先生の好みって感じがしていじらしく思います。
ただ甘城ブリリアントパークではその性的嗜好が全面に出すぎていて、寒くなっていると感じました。まあ甘城ブリリアントパーク自体が蛸壷屋的裸踊りイズムを持っていたので、無理からぬこととは思いますが。
蛸壷ギャグは、キャラがぽつりとこぼすちょっとしたセリフもよかったりします。秋山殿のお母さんの「戦争のプラモデルは没収します」の「ゲームは全部ファミコン」的なこの手の趣味にまっっっったく理解がない感じが面白い。このシーン、秋山殿のミリタリ趣味を愚弄して貶めているように見えますが、蛸壷屋先生が最終的に彼女にどんな結末を与えたかと思うと、決してそれだけではないと思うのです。
他にもけいおんであずにゃんの路上ライブを取材するミミネ屋の「不思議キャラ不徹底ですね……」も好きです。ワイプの女の表情の変化にも注目。
氷菓の赤軍実録コンビニ漫画みたいなのが続いたすえのくっそしょうもない茶番も好きですね。あれは本人もギャグのつもりでやっているじゃないかと思いますが。
好きなところ その2 暴力と支配の百合セックス
蛸壷屋先生の描く女の子は可愛いです。一部では絵が下手などと揶揄する向きもあるようですが、私は好きです。ちょっと丸顔でほっぺたがぷにっとしてそうで、それでいて肉感的なたくましさのある体つきがいいですね。殴られたい。蹴られたい。石鹸入りタオルでリンチされてみたい。あとキスするときのぽってりしたくちびるも好きです。
さて、蛸壷屋先生は可愛い女の子たちに百合をやらせることが多いのです。ストライクウィッチーズ、けいおん、まどか、ガルパン……男性主人公のいない原作では素直に百合を描いています。そして、それは多分に暴力と支配を伴います。
私は蛸壷屋先生の描く暴力と支配を伴う女性同士の関係が好きです(露悪的な芸風ゆえとわかっていても)。特に好きなのは西住みほと秋山殿ですね。みぽりんの履く硬い軍靴で、頭を何度も足蹴にされるのは、たいへん甘美です。いじめられっ子が自分より弱い者が現れて喜ぶ、暗い感情が好きなんですね。まどかとほむらもそのような関係でした。虐待を受け飢えたまどかの“餌付け”なんか、ほんの数コマですが、ドキドキしたもんです。
ほむらはまどかを自分より弱い存在だと思い込み、彼女を試します。「神を試みてならない」と人は言いましたが、果たしてほむらの傲慢さは木っ端微塵に打ち砕かれることになります。最も弱く虐げられたもの、ほむらが“弱虫”と見下したものが、この尊大な試みを破壊する。その力関係の逆転が味わい深いのです。先生がまどかに向ける詢子由来の嫉妬と憎悪、異常な加虐も好きだったりします。ただそもそもまどか☆マギカってそもそも蛸壷屋的な企画なんで食合せは悪いと思います。ひだまりでアキレスと亀パロの方がまだ……って気がする。
ガルパンで決戦前夜、死の恐怖から互いの体を求め合う大洗女子たちもエモーショナルでした。蛸壷屋先生十八番ギャグっぽいエロなのですが、その中に切実な思いがあり、みぽりんと秋山殿の愛があり、不思議なペーソスがあります。余談ですが、アニメのガルパンの中で最も好きなシーンは、劇場版での廃校シークエンスです。終わりの光景を生きる少女たちの倦怠がなんとも物寂しくも温かい。あれだけずっと見ていたいくらいでした。
好きなところ その3 実は反戦漫画なガルパン本
ある事情があり、蛸壷屋先生のガルパン本『ゆきゆきて戦車道(別にそんなにゆきゆきて神軍は関係ない)』を読み返したのですが、最初に読んだ時よりも評価が上がりました。
【立川店】【同人情報】【成人向】サークル【蛸壷屋】より、超問題作『ゆきゆきて戦車道 総集編』が販売中です!本作はガルパン本編では描かれてない戦争の悲惨さを問答無用で描く210Pにも渡るディレクターズカット版総集編となっております! pic.twitter.com/8cJJNZatPB
— とらのあな 立川店 (@tora_tachikawa) 2017年4月16日
宣伝でも押されているし、予告でもトリを飾り、本編でも一際大きいコマとフォント決めているみぽりんのセリフがあります。廃墟に隠れ潜む中、秋山殿から勝ち目があるのか、と問われると、みぽりんはこう返します。
わかりません。ただ黒森峰はルール違反を犯しました。ルールを破ったものは負けなければいけないと思います。(中略)この大会のルールじゃなくて、戦車道のルールですらなく……
人道に対する罪 。人類へのルール違反を黒森峰は犯してきたんです
これを読み返して、本作がストレートな反戦漫画だと今さらながら気が付きました。ここでいう人道に対する罪とは、第一に(蛸壷史観の)黒森峰が行ってきた虐殺です。さらに敷衍すれば、硬式戦車道そのものでしょう。硬式戦車道なんてもんお出ししてきたのは蛸壷屋先生だろ!
たくさんの人間がこの大会で死んでいきました。その上に築かれた西住流、黒森峰の栄華など、絶対に認められないものです。原作同様、みぽりんにとって、これは望んで始めた戦いではありません。しかし、ここに至ってみぽりんの表情は晴れやかで美しい。戦車道よりも尊い普遍的正義、人道のために戦うと決めたのです。原作でもみぽりんは戦車道のルールや西住流のイデオロギーよりも、人道を選択したからこそ、故郷を追われたわけですし、ここはホント、良いシーンだと思います。
黒森峰が、母親が重ねてきた最悪の犯罪に終止符を打つために戦い抜こうとするみぽりんの決意は尊いものです。そもそも生命を奪ってんのは蛸壷屋先生だろ!
このシーンの後、みぽりんが秋山殿にする“爆弾”の話もエモかったです。秋山殿から「頼もしい」と言われたみぽりんは自分を臆病者だと言います。
バカにならないと動けないんです。バカだから、こうして目の前でお友達が次々に死んでいるのに、まだ試合のことを考えているんです。
小さい頃からお母さんに戦車道をやらされている内に自分が傷つかないコツを覚えました。意味を考えない、何も想像しない、バカになってただやるべきことをやる…とにかく楽になりたかったんです
私のここには爆弾が埋まってるんですよ。バカになった報いです。イヤな事はすぐ押し込んで蓋をして、もう見るのが怖くて開けられない爆弾です
二度も体を重ねたみぽりんと秋山殿ですが、本当に魂が触れ合ったのは、きっとこの時なのでしょう。暴力装置の西住みほ、いじめられっ子気質の西住みほ、どちらも受け入れた秋山殿だからこそ、ここで“爆弾”の話をもらしたと思えば、何ともエモくないですか?
さて、このみぽりんの独白ですが、氷菓の関谷純も似たようなことを言ってしました。関谷は革命家を気取りながら、同士を総括し殺した挙句生き残り、幼い姪・千反田えるを柱に縛り付けて強姦します。
える…俺達は…パーツに過ぎなかった…敵だった警官や先生も革命家の私や同志たちも、誰もがシステムから与えられる役を演じてただけだった…(中略)
システムを知りその支配から精神を護る唯一の方法は、自分の中の小さい疑問をないがしろにせず気にし続けることだ…
納得いかなかったら引き下がらない勇気を持つことだ…それが出来ず…自分の立場に用意された理屈を疑わないパーツになってしまうなら
える お前も私と同じように生きながら死ぬことになる
関谷純の言葉を借りれば、みぽりんは硬式戦車道というシステムを構成するパーツであり、 生きながら死んでいたというわけです。西住しほは娘を暴力装置として仕立てあげ、心に“小さな疑問”が詰まった爆弾を埋め込みました。
そんなみぽりんが大洗に来て、惨たらしい戦闘をくぐり抜け、大切な友達を得ることで、人の道を選びシステムに立ち向かうのは、感動的じゃないでしょうか。
みぽりんは故郷も、家族も、友達も、すべてを失って“人道に対する罪”を犯すシステムを破壊します。“人類へのルール違反”が断罪され、西住しほらが、人間の生命を道具として扱った報いを受けるのは、倫理的と言っていいほどでしょう。物語のラスト、みぽりんは彼岸で大洗女子の仲間と再会し、戦車道が楽しく安全なものなったことを喜び合いながら、みんなは勝どきをあげます。楽しく安全な戦車道とは、原作で描かれていることそのものであり、逆説的に原作を賛美してしまっているわけですね。
蛸壷屋先生、実はこの人間を抑圧し、支配し、装置に作り変えるシステムに対抗する術をもう一つ提示している……と私は考えています。それが、下記の「その4」です。
好きなところ その4 実は優しい?
蛸壷屋に関してこのようなツイートがありました。私はこの書き込みを拝読してガルパン本を読み返してみたんですね。
蛸壺屋同人誌、合わない人には絶対合わないし面白く思えというつもりはないけど、「ゆきゆきて戦車道」の[ https://t.co/oxjpAozkBE ]て台詞を見てなんか色々昇華されたので、ただのグロだからとか有名作品に寄生するゴロだから、という見方にはあんま同意したくはない。
— あきひろ (@Werth) 2017年4月19日
蛸壺屋同人誌、撃たれて瀕死の秋山殿が『あなたが戦車で遊ぶのは何も知らないからよ!(中略)実際に自分が撃たれたらそんなの大嫌いになるに決まっています!』て言われたの思い出して『でも…こうなった今でもやっぱりタイガーやパンサーはカッコ良くて好きであります…』て言うとこ凄く泣けて尊い。
— あきひろ (@Werth) 2015年12月10日
なるほど素敵なシーンです。秋山殿は上記の通り、親から“戦争のプラモデル”を否定され、中学校では排除され、同好の士と信じた男たちには強姦されて捨てられました。秋山殿のミリタリ趣味は嘲笑され、否定され、惨めなものと描かれているようです。
他人の褌を汚す名手、アニメキャラを精神的に追い詰めるイナゴ野郎の面目躍如といった感があります。汚くて安直で安っぽいリアルを突き付けて気持よくなっていますね。
これが現実でーす!
……と大音声が聞こえてきそうです。しかし、それでも、秋山殿は最期にミリタリ趣味を肯定します。これを読み返して、私は思いました。案外優しいな、と。蛸壷屋先生、こんな優しさを最後に見せることが多いのです。
たとえば中二恋です。小鳥遊十花の戸塚ヨットスクールごっこによって、六花たちの中二病は治療されます。しかし勇太と六花は“健全な若者”としての自己に耐えられなくなるのです。
前述のみぽりんや関谷純のエピソードと通底するようなセリフがあります。勇太は「社会の歯車」として生き続ける絶望を語ります。結局六花は本当の幸せを探すために、中二病へ回帰します。システムを構成するパーツであることをやめるのです。散々身も蓋もない現実を押し付けたすえ、十花の治療は失敗に終わり、活き活きとした六花の中二トークで幕を下ろします。
出世作・けいおんでも、あずにゃんに優しい結末を与えています。あずにゃんは必死にあがき、苦しみ、絶望し、唯を失います。それでも音楽を捨てることはありませんでした。物語はあずにゃんが幸福な居場所を見つけて、笑いながら歌うところで終わります。俺妹の時も、社会のどん底に突き落とされた(蛸壷屋先生によってですけど)桐乃をギリギリのところで支えていたのは、はたから見れば取るに足らないアニメのストラップでした。創作物によって人格を破壊されたと言いながら、苦しみの底にある人間を支えるのも創作物だと提示します。
秋山殿のミリタリ趣味、六花の中二病、あずにゃんの音楽、桐乃のオタク趣味、これらは蛸壷屋先生が身勝手にも彼女らに強いる下品下世話しょーもな映画丸パクリ・リアルの前では、取るに足らない“はかなき夢”です。明日には殺されることも知らずに眠る、蛸壷の中の蛸が見る夢のようなものです。
しかし、蛸壷屋先生がこれらの“はかなき夢”に向ける視線は、ほんの少しだけ、優しい。彼らの抱くそれは、下品下世話しょーもない・リアルに負けてない。
秋山殿は“戦争のプラモデル”を明日も続けることのできますようにと祈りながら、死んでいきます。最後の最後、秋山殿の心は家に置いてきた作りかけの「タイガーⅠ黒森峰・西住みほ仕様」にあって、目の前にある死や暴力に取り込まれていません。死ぬまで装置であることを止めなかったみぽりんと対照的です。秋山殿だけでなく、六花やあずにゃんたちもギリギリのところで蛸壷屋先生が科す抑圧的なリアルに抗い、私はまだ“はかなき夢”に生き続けると宣言します。
ミリタリ趣味や中二病、音楽、アニメ、ゲーム、そして、漫画……こんなものが人間の精神を辛うじてシステムから守っている、そんな蛸壷屋先生の心の声が聞こえてきませんか。
アニメキャラを踏みにじりきることのできない優しさに、蛸壷屋先生本人の実人生(先生のホームページ等で熟知すべし)を勝手に重ねて、勝手に内心を推し量り、勝手にエモくなるのは悪趣味でしょう。まあ自分勝手な解釈をして勝手に気持ちよくなるのは、あらゆる二次創作の本質であり、素晴らしさですから、まあいいでしょう。っていうかこれよく考えなくても完全に犬と不良理論だ
嫌われがちな蛸壷屋本でもいろいろこねくり回しせば素敵なところは見つかります。まあ別に、素直に読んでエモくて素敵な本を読みゃあいいんですけどね。
さてさて……これまでいろいろと蛸壷屋先生を持ち上げてきました。本当に好きだから艦これずっと描いているじゃないかとは言いましたけど、これで急にくっそ寒いけもフレ本出して総スカンを食らって欲しい気持ちもあります!
とまあいろいろ知った風なこと言ってきたけど、別に蛸壷屋先生の本全部読んでいるわけじゃないんですよね。蛸壷屋大全集みたいなの、誰かまとめてくれないかしら。